私、日々の思いを綴る…

このブログでは、私が、日々の思いを綴っていこうと思います。

闘病の振り返り

こんにちは。

突然ですが…
私は、2020年11月、
くも膜下出血で倒れました。
現在は、
治療に携わって下さった皆様のおかげで、
生きることが出来て
体調もほぼ回復しました。

発症後1年を迎えようとする今、
あの頃の思いを備忘録として
残しておきたくなりました。

振り返ることで、
生かしてもらったことをあらためて感謝し、
繋いでいただいた命を大切にしようと思います。



2020年11月2日

多分深夜もしくは朝方…
トイレに行きたくて起きたが、目を覚ましたと同時に、これまで経験したことのない頭痛を感じた。これは持病の片頭痛ではない。そして頑張ってトイレまでたどり着いたが、トイレの前で倒れた。
異変に気付いた主人が自室から出てきて、私は意識が朦朧としながら一言二言話した。主人が直感的に脳卒中と判断し119へ電話、救急搬送の連絡をしていて、私の容態を伝えているのが微かに聞こえたが、だんだん意識は薄れ、救急車に乗る前に意識は無くなった。
激しい頭痛を感じてから意識が無くなるまで、
わずか5分程。たったの5分程で意識不明…


その後救急車が到着し搬送してもらえた。
当時小2だった息子は、寝ているところを起こされてこの時初めて救急車に乗ったそう。
搬送先は、当時主人が勤務していた大学病院。


搬送されたその日、
単純CTと脳血管撮影をして、
午後には、stent支援脳動脈瘤コイル塞栓術をしてもらえた。
1.6㎜の動脈瘤が破裂したらしい。
この動脈瘤、春のMRIでは発見されなかった。
私は片頭痛脳神経外科に長く通院している。
春にMRIをしていて、その時点では発見されていない。異常無しだった。
それから約半年後の今回、
発見されにくい、手術の難しい場所で動脈瘤が破裂した。
(現在は通院先が変わり別の病院で診てもらっているが、紹介データを見た医師が、私に対して「生きていてよかった」と、そして手術をした大学病院の医師に対して、「これは○○先生も大変だった」と言っていた。大変な患者で申し訳ない…そして、第三次救急である大学病院に直接搬送されたことは良かった。)

入院翌日の11月3日も単純CTをしていた。
(記憶に無いが、書類が残っている)

11月4日はMRIをしていた。記憶無し。

私の意識がいつ戻ったのかは覚えていない。
これらの書類は自筆のサインではなかった。
私はいつ意識が戻ったのだろう…
目を覚ました時、日付がわからなかった。

それよりも衝撃的なことがあった。
目を覚ました瞬間、視界がとても悪かった。何かが見えているが何かはわからない。全てぼやけていて、はっきり見えなかった。

後に、外転神経麻痺になり複視という症状が出ていることを知る。
外転神経麻痺で眼球が内側に向いていたので、
両眼の視線が見たい物の場所で交わらなくなり、物が2つに見える複視という症状が出ていた。

脳外科手術後はSCU(脳卒中専門治療室)で集中的に治療していただいた。
日付・名前・現在地を繰り返し質問されるが、答えていく中で、記憶や麻痺、失語、感覚障害、嚥下障害等は無いことが自分でも確認できて安心した。
複視に関しては時間の経過と共に良くなると聞いた。退院する頃には完治していると勝手に信じていた。けれど、入院中に複視が良くなることはなかった。退院する直前、複視が私にとっての後遺症だと、生涯この視界で生きていくことになったんだと思って、一度だけベッドの上で泣いた。泣くのは今日だけ、退院したら私には子育てがある。悲しんでなどいられない。


SCUに居る時は頭痛がひどかった。
頭痛がひどくて寝てしまいたい、
なのに痛みで寝られない、
その後、気を失うように寝落ちする…
この繰り返しだった。
頭痛がひどく数時間おきに痛み止めを内服したり点滴に入れてもらったりした。
次の時間まで待てずに痛み止めを欲した。
後に、痛み止めを自分で管理するように言われた。
内服は4時間以上間隔をあけて、点滴は6時間以上あけて、それぞれ1日の制限有り。

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痛み止めをまだ飲めない時には、頭の痛いところを強く押したくなった。多分…押した痛みで、元の頭痛を少しだけまぎらわせていた。こうして自力で痛みを乗り越えようと思った矢先、看護師さんに注意された。押してはいけないと。
この頭痛は約2週間続いた。


意識が戻ってすぐに、私は胸の苦しみを訴えたらしいが記憶にない。こうして、循環器内科の治療も始まった。後に、不整脈と心臓の壁が厚くなっていることがわかった。血圧の高い状態が長く続いたことが原因と予想されたが、日々血圧を測っていなかったので、血圧が高い状態が続いていたのかは不明。
救急搬送の時の血圧は、収縮期血圧が200近くあったらしい。血圧が高くなる病気に罹っていることを疑う。後に内分泌内科で、サブクリニカルクッシング症候群で、この症状の一つに高血圧があるとのことだった。副腎腫瘍もみつかった。


OT・PT、毎日それぞれ約20分のリハビリ。
毎日これだけの繰り返し。
食事は、七分粥の軟菜食から全粥の軟菜食へ。主食の量は半分にしてもらったが、残さず食べていた。


水頭症予防のため、少し頭を高くした姿勢での寝たきりの状態が続いた。腰が痛い日々が続いた。水頭症を患うことは無かったが、腰痛持ちになった。整形外科にもお世話になり、塗り薬や湿布で耐えた。
(あれから約1年になろうとする現在も腰が痛いので、整形外科医院に通院している。何度か脳血管造影をする必要があり、脳血管造影をするとその後4時間以上は動けない。寝たままの状態で姿勢も変えられない。その時の腰痛が辛いので、脳血管造影を受ける時のために腰痛治療もしている。)


11月10日、単純CTを受けた。

11月11日は脳血管造影をした。
この検査の同意書のサインを、11月6日に主人がしている。6日の私は、自筆でサインが書けない状態だったことがわかる。

11月12日はFFRCT(循環器内科のCT)を受けた。
検査部位は、急性冠症候群、冠動脈。

11月16日はMRIを受けた。


手術を受けてから約2週間が経過して、
体調も良好で、一般病棟(4人部屋)に移った。

尿の管が外れて、後日点滴も外れた。


一般病棟に転棟してからの生活は劇的に変化した。
面会は、新型コロナウイルス感染症対策のため面会禁止だった。
床頭台が準備されて、テレビも冷蔵庫も備え付けられるようになった。
テーブルをお借りしていたので、息子に手紙を書いた。
携帯電話を持ち込むことが可能になり、利用可能区画で電話をすることができるようになった。電話をすることは無かったが、YouTubeに投稿されているラジオ番組を聴いていた。お気に入りの安住紳一郎さんの日曜天国と、松本人志さんと高須さんの放送室、テレ東佐久間さんのオールナイトニッポンも聴いた。複視を患い、画が無くても面白いラジオを聴くことが増えた。
洗面所で、毎朝毎晩洗顔をできるようになり、歯磨きも毎食後にしていた。
入浴が可能になり、入浴介助無しで入浴できるようになった。


これまで病棟で受けていたリハビリOT、PTどちらも、1階のリハビリテーション科で行うことになった。6階から1階まで通うリハビリが始まった。
これまでは主人に届けてもらっていた水やお茶も、それからは1階のコンビニで毎日ペットボトルの水を買い物することもリハビリとした。
コンビニという狭い空間で周囲にぶつからずに歩く、陳列されているものを奥行きを確かめながら商品を手で取る…リハビリの先生に付き添ってもらいながら買い物の練習もした。

OT(作業療法)では、
買い物の他に院内を歩く、
キャッシュコーナーで不便があるかを確認、
エスカレーターの乗り降り、
キッチンの使い方の確認、
ビジョントレーニングなどをした。

外転神経麻痺を直したくて、
自然治癒を待つだけではなくて、
直す努力をしたくて、
OTにアドバイスをもらった。
病室のベッドに戻り、
教えてもらったように、眼球を大きく動かすことを意識しながら、左右の限界まで見ることを何度も繰り返した。
隙間時間を見つけては自分で出来るビジョントレーニングをした。
リハビリテーション科では、アプリを入れたiPadでビジョントレーニングをした。約30年ぶりにテトリスもした。眼球を動かすことをリハビリとしていた。
退院後は、息子と一緒にゲームをして、キャラクターを目で追うことをアドバイスしてくれた。大乱闘スマッシュブラザーズがちょうど良いらしい…(退院後、息子にお願いしてスマブラを一緒にしてみたが、ゲームをしたことのない私では息子の相手にならず、私が相手ではつまらないとのことで対戦相手から外された。その後も息子と一緒にゲームすることは断られ続けた)

この頃には、視界が全てぼやけている状態から明らかに複視の状態になった。自分の片足が2本に見えた。
外転神経麻痺の強い左目を手で覆い右目だけで見ると、2つに見えていたものは1つに見えることがわかった。逆でも見えた。明確に見たい時には片目を覆うのも1つの方法だとわかった。過ごし方が分かると行動範囲も増えた。


PT(理学療法)では、ベッド上での足腰の軽いストレッチから、歩けるようになるまでを病棟でサポートしてもらった。
複視の状態での歩行に慣れてからは、1階のリハビリテーション科でのストレッチ、特に腹筋回復のストレッチをした。横向き後ろ向き歩行の練習、階段歩行、床が柔らかい状態での歩行など、各種歩行の練習をした。
階段では、自分の予想する段差と実際の段差にズレがあることがわかった。足を置くところに床が無くて、毎回足で探り探り昇降した。


退院後の生活を考えると、
OT、PTどちらのリハビリもとても重要だったと思う。入院している当時はなんとなくしていたリハビリだったが、特に腹筋など筋力に関しては努力せずとも回復すると思っていたが、
なかなか回復が遅い…

発症してから1年になろうという今、
あらためて腹筋回復のリハビリをしている。
1年前の大学病院入院中に
ちゃんと腹筋を回復させておくべきだった。


一般病棟にすぐに慣れて、
家事育児をすることもなく
ゆとりある生活を送ることができて、
お掃除もしてくれて3食提供してくれる、
リハビリ以外は自由時間で、
大人になってから取得した長期休暇。
家族に会えない寂しさなど感じず、
療養という名の自由な生活を送った。


11月22日には、自宅へ外泊をした。
翌週に退院を視野に入れたリハビリ。

自宅での生活において、どこでどのような困難があるかを確かめる外泊だった。
困難によっては、大学病院からリハビリテーション病院への転院も考える必要があった。

約3週間振りの我が家は、
心配していた不自由は無かった。
よく見えなくても体が慣れていた。
息子は、私の目がよく見えないことを理解していた。いつも助けようとしてくれた。
「ここに段差があるよ」と教えてくれた。
成長したなぁと思った。

まずは、息子が小学校にちゃんと通えていて安心した。
入院前に喘息で通院中だった息子が、
精神的には多少の苦労をかけたが、
喘息の通院を継続していて、
予約していたインフルエンザの予防接種もしていて、
歯科治療もしていて、
元気で良かった。
習い事は全てお休みにしていた。当然だ。

食事は炊いたご飯とコンビニのお惣菜。
美味しかった。
大学病院に勤務する主人、
普段スーパーで買い物できているかは不明。
コンビニでしか買い物できていないように思わせる冷蔵庫の中だった。
コンビニのお惣菜各種本当に美味しくて、
退院後もセブンイレブンのさばの塩焼きとザーサイ、きんぴらごぼうをリピートして買った。

翌11月23日、病院に戻った。
正直、病院に戻ったことに安心した。
せっかく外泊が許され帰宅できたのに、
久しぶりに家族と再会できたのに、
身勝手な言い分で申し訳ないけど…
ここでは無条件で、体調が悪くなった時には
助けてもらえる安心感があった。
身体的回復は早かったけど、
くも膜下出血で倒れたという心理的恐怖と、ここから脳梗塞脳出血発症の心配の恐怖が頭から離れない。(手術で治療出来ない箇所有り)
頭痛を感じて約5分で意識を失った。気付いてもらえなければ生きていなかったかもしれない。重篤な後遺症が残ったかもしれない。
幸運なことに約30%の『なんとか社会復帰』になれた。
死亡する割合が約50%と高いくも膜下出血。即死や手術も出来ないほど、または手術をしたけど亡くなる場合が多い疾患。
(残りの20%は、寝たきり〜植物状態、または重い障害が残る)

複雑だった。

入院していると、体調不良の時には助けてもらえる、安心する。

自宅では…また息子と2人暮らし。主人の帰宅は遅い。
でも、主人の帰宅が遅いことは、帰宅しないことは、患者さんにとっては安心である。
患者になって初めて解った事実。
これまでもそうだったが、今後も主人が医師で在り続ける限り、私は主人に早く帰宅してとは言わない。

小2の息子にキッズ携帯を持たせ、家にはモニターをつけることにした。
主人は、私の気がすむまで、
転院して入院していてもいいと言ってくれた。
私も、転院したかった。

月末に退院する予定になった。
ゆっくり考えてはいられない。
私は退院して自宅に帰宅することにした。
十二分に長期休暇をもらった。
これからはまた母に戻る。


11月28日、退院時の説明を主人と受けた。
我が家に帰宅した。

退院後も通院は続いた。

12月10日、脳外科MRI検査。

12月17日、脳外科、眼科、循環器内科、リハビリテーション科受診。
この時の眼科受診でも複視は治らず…私は車の運転を諦めた。車があると運転したくなるので、車は後日主人に処分してもらった。

12月21日、内分泌内科受診。血圧が高くなる疾患として原発性アルドステロン症を疑っていた。

年が明けて、1月12日の内分泌内科の通院。
予約通りに採血と甲状腺エコーの検査をして、
医師が首を触診した後、突然
甲状腺穿刺吸引細胞診をすると言った。
その次の1月19日の通院で、
私は甲状腺乳頭癌と診断された。
また新たな病気発覚…
でも、甲状腺乳頭癌だったので、
他の癌と比べて落ち込むことは無かった。
切除すれば問題ない。
転移してからでも遅くない。

通院の回数が増えることは否めない。
4月から家族3人で、
私の両親が住む故郷へ帰ることにした。

2月10日は脳外科入院前の通院。リハビリも。
採血、レントゲン、心電図の他
新型コロナウイルスの検査もした。

2月12日は、脳血管撮影の検査入院。
2月13日に退院。

2月25日、脳外科受診。脳血管撮影の結果は変化無し。

2月26日は、内分泌内科の
CT、安静時採血

3月5日、内分泌内科受診。
これまで、副腎腫瘍があり、またコルチゾールの値が高くこれが血圧が高くなる要因とされていて原発性アルドステロン症を疑われていたが、サブクリニカルクッシング症候群と診断された。今後も治療が必要になった。

3月18日、循環器内科と眼科、リハビリ受診。
循環器内科も引き続き経過観察で通院が必要。
眼科は、複視が完治し眼科受診は終了、なのでリハビリも終了。
運転再開において脳卒中完治を警察に報告する義務があり、その時に医師の診断書が必要。
これは眼科医師ではなく脳外科医師の診断書。引越先で運転免許証の住所変更をし、新たな病院の脳外科医師より診断書をもらい提出した。

3月25日、脳外科受診。
これが、大学病院最後の受診。
2日後に故郷への引越を控えていた。


引越後もまだまだ通院は続く。
先ずは副腎腫瘍の手術前の検査入院、大きさとホルモンバランスによっては手術、
甲状腺乳頭癌の経過観察、大きさ的には手術必要だが、副腎腫瘍の検査が優先…
腰痛もMRIで椎弓に白く影ありで、CT検査ができる病院へ紹介されている。

私の健康は少し先にあるらしい。


息子には寂しい思いをさせたし随分我慢もさせた。それなのに母の体調を気遣う言動があって愛おしかった。
そして、この間に随分成長した。
主人には、私の入院期間、これまで何一つ家事育児をしたことが無かったのに、ある日突然家事育児を担うことになり、仕事をしながら家事育児をしてくれた。
各科の診察時間に、勤務から抜けて私の診察に付き添ってもらった。

家族には感謝しかない。


そして私は、
この経験を糧に、残りの人生を自分らしく生きるべくいろいろ考えてみたい。


長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。